楠木神社 概要
神社名: 楠木神社(くすのきじんじゃ)
鎮座地: 鹿児島県薩摩郡さつま町宮之城屋地1030
例祭日: 四月十四日
通称 : 楠公(なんこう)さん
ご祭神: 楠木正成公 (1294〜1336)
ご神体: 楠公さんの木像
- ご神体の木像、言い伝えでは、水戸(徳川)光圀(水戸黄門1628~1700)が1691年(326前)に広巌寺(兵庫県神戸市)に奉納した三体の一体。他の二体は存しないという。
- 木彫りの極彩色の立像で高さ25㎝
楠木神社 沿革
正保3 1646 坂本村の埋塚、楠公墳墓と判る。
寛文4 1664 貝原益軒「墓は平田の中にあり、荒れても のさびしい」と嘆き悲しんだ。
延宝 2 1674 薩摩藩重臣諏訪兼郷 楠公お墓を弔ふ。 (湊川弔古の紀行)
貞享2 1685 水戸の佐々木助三郎宗淳(水戸黄門の助さ ん)は湊川を訪ねた。同行の鵜飼真昌の記録 「楠木正成像」河内天野山摩尼院所蔵木像を 以って、狩野永納をして之を摸せしめ、重ね て摂津湊川広厳寺所蔵の木像を以って、並べ 之を比ぶるに少しの差あらず。貞享乙丑春 鵜飼実昌識。
元禄4 1691 水戸光圀(水戸黄門)摂津医王山広厳寺に楠公廟を建 て、楠公の御遺像三体を寄贈した。
元禄5 1692 水戸光圀湊川に「嗚呼忠臣楠子之墓」を建てる。
安永6 1777 伊集院石谷村町田家家譜に本御遺像「石谷熊野神社内にあり、久甫迎えて千本第に奉安す」
文化3 1806 町田久甫の子久視が広厳寺に参り、家蔵の遺像は彩色してあるが、広厳寺蔵のは素木像であることを確認した。
1800年代 国学者白尾国柱(1762~1821)「倭(し)文(ずの)麻環(おだまき)」に詳しく楠 公木像を図解掲載する。 ―――― 有馬新七(1825~1862・寺田屋騒動で死去)湊川広厳寺の三体の楠公御遺像のうち、彩色してある一番良いのを寺の許しを得て持ち帰る。面白おかしく云う話が伝わっている)(安政6年と文化3年の町田家の記述と異なる)
文久元 1861 有馬新七が町田久成を説いて、町田邸内の「楠木大明神」を伊集院郷石谷に移す。神 祠を建て「楠公社」と称する。
明治3 1870 西郷隆盛軍務局隣に「皇軍神社」を建設、楠公御神像を伊集院より奉迎、祭神十座の うち第三位に配祀。
明治10 1877 辺見十郎太が和泉邦彦、平田成介らとはかって宮之城に遷座した。
明治18 1885 湊川神社宮之城村屋地大明神脇に完成。
昭和20 1945 昭和16年現在地に着工し、終戦間際漸く完成、同20年4月12日遷座際が行われ、 「楠木神社」に改められた。(戦後完成との説がある)(昭和16年1941・11月25日鹿児島新聞に「楠木神社地均式 宮之城町で奉仕作業」の記事)
昭和25 1950 「宮之城町の文化財」に「招魂碑」と「楠木神社の御神体」を紹介
昭和44 1969 神社殿完成。同12月21日遷座際。
昭和45 1970 5月16日 正成のお守りは本物? 国会図書館の森田氏ら 南日本新聞掲載
昭和59 1984 町報59,6号に 明治維新の原動力 薩摩の楠公社 郷土史家 平田宗隆 掲載町報59,7号に 西南の役 勝海舟書の招魂碑 郷土史家 平田宗隆 掲載
昭和60 1985 大楠公650年大祭。宮之城遷座百年祭
参考 薩摩の楠公社 平田宗隆 ほかによる
この概要と沿革について、さつま町郷土史研究会会長 三浦哲郎氏のまとめられた資料から引用させていただきました。