楠木神社には、西南戦争の戦死者を悼む二つの慰霊の碑があります。明治12年揮毫、同18年屋地小字大明神脇の松尾神社に建立。

勝海舟の 惆悵旧歓如夢ちゅうちょうきゅうかんゆめのごとし の碑

慰霊の碑の一つは西郷隆盛と江戸城開城の大任を果たした幕末明治の政治家「勝海舟」が書いた「惆悵旧歓如夢」の碑。巨大な自然石に大書してあります。この意味は、平田宗隆さんによると、惆悵とは、悼み悲しむこと。旧歓とは、昔のよしみということで、江戸城開城の時、二人が肝胆相照らして江戸を戦火から救った、その頃を思えば、思いもかけず西南戦争で西郷さんを失って悲しみに堪えないことよ。と解説しています。

この碑の題字は、宮之城出身の志士 和泉邦彦と宇都宮平一らが勝海舟を訪ねて書いてもらいました。勝海舟は何回も断ったが、13回も来たので、根負けして碑文を書いたと言われています。

海舟は幕末・明治の政治家。咸臨丸を指揮して渡米。帰国後、軍艦奉行。幕府側代表となり、西郷隆盛と話し、江戸城明け渡しの大任を果たす。1823~1899。

中村正直の 悵旧碑ちゅうきゅうひ 

もう一つは、中村正直の悵旧碑です。正直は江戸生まれ、東大教授、貴族院議員、さつま町の人達が正直の著書を愛読し心打たれた宇都宮らが懇願し、西南戦争戦死者悵旧の碑文を書いてもらいました。碑文は宇都宮が下原稿を書き、それを中村正直が推敲校正して出来たといわれています。
勝海舟の碑も正直を介して海舟に面談できたということで、中村正直なくしては海舟の碑はなかったことになります。

瀬角龍平様(大隅史談会会長・垂水史談会事務局長・垂水市文化財保護審議会会長)にて行われました現代語訳を掲載します。西南戦争に宮之城の地から薩軍として従事した人々がどのような心境だったのか理解でき、とても心打たれる内容になっています。ぜひご一読ください。

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平田孫一郎 生誕の碑

平田孫一郎氏は、宮之城島津家次席家老・平田四郎兵衛の長男として、嘉永元年(1848)12月に城之口で生まれました。20歳で戊辰戦争、30歳で西郷軍として西南戦争に従軍しました。このとき、同郷の大浦兼武氏の妹・やさ子と結婚していましたが、西南戦争で大浦氏と敵同士となったため、離縁することとなりました。
西南戦争後は国事犯として市ヶ谷監獄に収監され、そこで知り合った群馬県出身者から養蚕の有利性を聞きました。釈放されて郷里に帰った後、早速、群馬県や熊本県からカイコの卵である蚕種や、カイコのエサとなる桑の苗を取り寄せて飼育を始めました。その成果は良好で、明治19年に盈進校の校庭の片隅に製糸工場を建設すると、翌年には生糸をアメリカに輸出するほどの成果を挙げました。26年には水力ケンネル式釜焚火の動力製糸所を設立。28年にはその施設と従業員を県授産学校に譲与し、自らは主事として経営に当たりました。
平田氏は、養蚕業の基本は蚕種であるとの信念から、明治26年に有志と「厚生社」を設立。当時、鹿児島県下の養蚕を指導していた福島県出身の菅野平十郎氏を招いて、京塚原の模範桑園で優良蚕種の生産を試みました。菅野氏の指導監督により、大正3年の閉社まで一度の失敗もなかったといい、厚生社の蚕種は瞬く間に県下に普及しました。平田氏のこれらの功績により、宮之城は県下屈指の繭市場へと成長しました。
大正8年に一線を退き、轟原で余生を過ごした平田氏でしたが、その2年後、73歳でその生涯に幕を閉じました。 (広報さつま 2019年1月号より)

この石碑について、さつま町郷土史研究会会長 三浦哲郎氏のまとめられた資料から引用させていただきました。